« ありがとうございました。 | メイン | 今月のからだ旅クラスについて。 »

2016年12月06日

生きている不思議、死んでゆく不思議

父のいまわの際の話なので、お嫌な方は読み飛ばしてくださいね。

父が息を引き取るとき、左手を母が、右手を私が握っていました。
「脈、おちてきたね」と母が言い、わたしは握っていた手を父の姉に渡して、右側頭方に立って頭を包むように触れて、頸動脈の拍動を見ていました。

しゃくるような息と、ため息のような深い息。

かわるがわるの息がだんだんランダムになり、手の脈を見ていた母が「…とまったみたい…」とつぶやき、追って頸の拍動がだんだん弱くなって、ぺしゃ…ん、と、空気が抜けるような感じで止まりましたが、頭蓋は一定のリズムを保ったまま、膨張と収縮を続けていました。

ちゃんとクラニオを学んだわけではないので、tideのリズムを分析するスキルは持ち合わせていませんが、それでも、脈の拍動や呼吸のリズムとは違う、そして、健康な人とはちがうリズムがありました。

父の意識がなくなった25日の夜、いつ急変するかわからないから、できたらどなたかおそばに、ということでひとりで病室に泊まったのですが、夜中に起きておりおり声をかけて頭に触れていて、そのときの手のひらに感じた圧は、なんだか不安定な、迷うような様子でしたが、それとはまた違う、なにか意思のようなものを感じる迷いのない力強さ、二つのくっきりしたリズム。

脈が途絶えたのは、母の時計でみていて3:33だったのですが、主治医がほかのご用を済まして少し遅れていらっしゃって検死の処置を済ませた時間、検死終了時間を見ると3:44。

検死処置の時間を除いたとしての、しょうみ10分ほどの触れていた時間はとても長いような短いような不思議な感覚だった。

途中で、二つあったリズムが一つ、ふうっと消えて、でも手のひらにはまだもう一つのリズムが残っていて、そのとき、「おとうさん、置いて行かないで」と一瞬言いそうになって、むかし、わたしがまだ小学校低学年だった時の、高速道路のパーキングエリアでトイレに行って戻ろうとしたときに、目の前を父と同じ車が通りすぎて、それをなぜか置いて行かれたと勘違いしてパニックになって大泣きした時のあの、日が暮れかけた夜の空とか、涙でびしょびしょになったスタジャンの袖のリブの部分の冷たい感じとか、スカートの下の自分の膝こぞうの感じとかがどわーっと蘇って、涙がメガネを伝って父の顔にたくさん落ちてふと我に返り、それと入れ違いに主治医が入ってみえて、名残惜しく手を離し。

次の看護師さんたちによる身支度の処置の前に少し触れたときは、だいぶおぼろげな感じだけど、まだ、なにかあった。

ひとはそれを魂と呼ぶのかもしれないね、と、昨日の勉強会のあと、どうしても先生にお聞きしたくて帰りに仕舞い支度をなさってるときに声をかけてお尋ねしたのですが、静かに聞いてくださったのち、すこし考えて、先生の経験も含めてお話くださった。

宗教宗派を超えて、49日間魂はまだこの岸にあるそうですが…。

勉強会で脳がテーマのところにはいってからのこの三年間の学び、またこのタイミングで今回のテーマに添うところのあるものだったとは…意味のあるものでした。父に教えられるものはまだまだありました。

11月初頭の周産期心理学、女性のセクシュアリテイについての学びから、長年もがいてきた、自分が追い求めてやまないものは何か、というのがおそらく「いのちにふれること」なのではないかということ、そしてそれがやっと感性と学びが足並みをそろえて手のひらにみえるということはそれを許されてきたのはないだろうか、その入り口からこぼれるひかりをようやく感じることができはじめたのではないかと思えた中での再びの「あなたは、生物に触れているの?生命に触れているの?」という先生からの問いは、この年の締めくくりにふさわしいものであったのではないかと思います。

やっぱりちょっと疲れてしまったけど、行ってよかった。

投稿者 あつこ : 2016年12月06日 11:06

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://tsuruga.xsrv.jp/mt/mt-tb.cgi/2174

コメント

コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)