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2016年04月04日

さくらいろ舞うころ

今日は二十四節気の「清明」。

「清浄明潔」(しょうじょうめいけつ)
これを略したものが「清明」。

春の光あふれ、目に見えるものが清らかに明るく生命力あふれて見える、そんな季節に差し掛かっています。今日はあいにくの雨ですが、雨に「洗い流される」ような気持ちでいられるのも、この季節の清らかさを感じるひとつかもしれません。

なのに、ニュースのフィードを眺めると「月曜を気分良く迎えるためには」とか「月曜から金曜までを乗り切るためには」なんてじゃっかんブルーな記事が並びます。

月曜はいつもやってくるのに、春はそれをさらに特別なものにしてしまう何かがあるんだな、と思います。

365÷24、確実に15度ずつ季節がうごいています。

はれやかなこの季節から置き去りにされるようなこころもとなさが、そんな気分にさせてしまうようですが、じつは、私たちが地球上にいて、動き続けているから季節がめぐるのですよね。

昨日の午前中は、ちょこっとおやすみいただいて、着付けの裕子先生が定期的に京都から講師の先生をお招きして開かれている、悉皆(しっかい)のお話会を聞きに行ってきました。

着物はただ着るだけではない、おかいこさんから絹糸、絹糸から布地になり、それは母から子へ、子から孫へ気持ちを添えて支度手入れをし、子や孫は、手に触れ袖を通し、着物としての役目を終えたものはまた違う役目を得てまた土に還すまで使い切るなかでご先祖への思いを深くする…双方向に縁巡る、何の特別なものではない、日々の暮らしの先にある日本の文化(カルチャーというより、スピリット、という意味合い)であるのだなあと思いました。

悉皆、というのは「悉(ことごとく)皆、成仏す」という仏教のことばだそうです。

これからも年に数回開催されるとのこと。特に、娘さんをお持ちのお母さんがたには聞いていただきたい、知っておいていただきたい、お話です。

いただいたお菓子とお抹茶椀にも、去る季節、来る季節の狭間を感じて嬉しいひとときでした。

しっかい.jpg

「学びながら着ることに意味がある」ということば、わたしのからだの扱い方、伝え方で大事にしたいところと繋がることでもありました。

また、父がしていたあきないについて、たくさん思い出すことあり…

数年前に訳あってあきないも含めてたくさんのことを手放すことになりましたが、父があきないやお付き合いの中で、伝わらなかったこと、誤解されたままのことも多かっただろうけど、不器用だけど誇りをもっていたこと、大切にしていたことは、わたしの中でもいまも生きているんだなと感じることができた、ありがたくうれしい時間でした。

投稿者 あつこ : 2016年04月04日 11:19

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