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2014年12月06日

「わたしは、大丈夫だろうか」

きちんと、仕事ができているだろうか。

ちゃんと、君を、愛せているだろうか。

いつも、不安になる。

わたしは、大丈夫だろうか。

自分を、愛せているだろうか。

最近、ネットで話題になっている動画を見ました。
「泣ける」「女性は大変だね」「ちょっとこれあざといんじゃない」「大変なのは働く女性だけではない」 「結婚して子供産む気がなくなる」など…
添えられたいろんなコメントも読みました。

わたしは、子どもが1歳の頃の、勤め先の山科から保育園のある西大津までの、心細い毎日の電車で一駅の帰り道、子どもを抱いて家まで向かうゆるい勾配の坂道を思い出して、ぎゅうっと胸が痛くなりました。

ウノのおかあさんのリラクゼーションプレゼントを提供するのは、この時の自分がしてほしかったこと、大丈夫と言ってほしかった、28歳のお母さん1年目のわたしのあの苦しい気持ちの、けっきょく答えの出なかった空欄を埋めたくて、埋めてほしくて、やってるのかもしれないなあ。

あの時のわたしが、もう少し「大丈夫」と思える余裕があったら、なにか変わったかもしれない?それも、今になってもわからないまま、です。
あは

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この写真、右側は、当時のただごとでないわたしの様子を察して、連休の3日間泊りに来てくれた友人が撮ったもの。

この頃は、他の写真を見ても、武装するように濃いお化粧をしていて、今見ると、ちょっとびっくりする。たぶん、こころの中の何かを隠したかったのかもしれないなあ。
夫に、他に好きな人ができて、家に帰ってこなくなって、悲しくてもういちどふりむいてほしくて、なんとか女らしくしようと出来もしないニガテなことを必死でしてたのかもしれない。
いまとなっては、もう思い出せませんが…。

友人にはその時は何も話せず、彼女も何も聞かずまたそれぞれの生活に戻って行ったけど、あの時のことを、たまーに思い出す。

ひとは、自分が思っているよりもたくさんのひとから、しらずしらず柔らかく温かい手を添えられている、と、子どもを得てからたびたび感じています。

そうは思っていてもまだまだ気づけずに、また、気づいていても気づかないふりで甘えおもね拗ねて、お礼の言葉ひとつまともにいえないわたしもいる。

そんな一番見たくないわたしをミラーリングするかのような息子の態度に、自分の未熟さをつきつけられるようで、ときどきいらだちもしたり。

怒りとは、かなしさ、さみしさの裏返しに顕れる表現だということも、子どもを得て、一緒に過ごして、やっとわかった。なぜ、あのとき、わたしは「かなしい」「さみしい」と言えず、怒ってばかりだったのかということが。
そして、夫もまた、たぶん。


ヨサに入っていて、ときどき、静かに泣いている人がいらっしゃる。
「あかり、おとしてもらえますか」とおっしゃって、わたしはそっとドアを閉める。

呼び止めて、問わず語りにはなされる言葉を、ただ、うなづいて聴き続けるだけで時間が終わる日もある。

「言えるとは、癒える」とはいえ、胸の内をあかしたところでどうなるわけじゃないことも多いけど、こんなわたしがなにかできるわけではないけど… 

でも、ただ、この時間をすごしてほっとしたお顔で帰ってもらったらいいな、と思う。

ただ、それだけです。

今月もご応募お待ちしています。

投稿者 あつこ : 2014年12月06日 13:14

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